故人のご遺骨をお墓に納骨(埋葬)しなければダメ?

当店では手元供養の業務を開始する以前は、主にお寺さんで墓石を取り扱う石材店の業務をメインに営業をしておりました。

手元供養の業務を開始した今でも並行して石材店の業務は今まで通り営業を続けています。

石材店の業務内容の中で最も頻度の多い業務の1つにお墓のフタを開けてご遺骨をお墓の中に納める「納骨」があります。


仏教に則り、または、従来の日本の慣習に従えば、四十九日に合わせてご遺骨をお墓に納骨することが一般的です。

でも「まだお墓が無い」とか「寂しくてお墓に納骨する気になれない」などの理由で納骨をせず、ご自宅にご遺骨を置いておく方も少なくないようです。


しかし、その場合には家族や親戚に「お墓に納骨しないと故人が迷ってあの世に行けない」とか「成仏できなくなる」などと言われることもあるかもしれません。


突然ですがここで2つ質問です。

故人やご遺族は仏教を信仰していますか?

今後も引き続き仏教の信仰を続けますか?



もし故人やご遺族が特定の寺院に所属している「檀家」だった場合、「菩提寺(所属している寺院)」の宗派を信仰していることが大前提となりますので、菩提寺のご住職の指示を仰ぎながら葬儀からご納骨までを仏式(仏教に則った形式)で進める必要があります。


ただ、「檀家でない」または「ご供養をお願いしたい寺院や僧侶が特にいない」という場合は仏式に則って進める必要はありません。

仏式に則らなければ「あの世」や「成仏」という考え方もありません。


話は少しそれますが、皆様は仏教を信仰していますか?

一言で仏教といっても天台宗・真言宗・浄土宗・浄土真宗・臨済宗・曹洞宗・日蓮宗・その他複数の宗派があり、さらにその中でも○○宗○○派といくつも枝分かれしています。

皆様の中には「自分の信仰する宗教は仏教の○○宗○○派です」とハッキリ自信を持って言える方はどのくらいいるのでしょうか?

もし○○宗○○派をハッキリ言えたとしても、ではその宗派の教えの旨とするところは何なのかを少しでも理解している方はどのくらいいるのでしょうか?

当店店主が石材店を営んでいて感じる肌感覚から言わせていただくと、日本人の中でそこまでご自身の宗教を理解している方は1000人に1人もいないのではないでしょうか?

長年に渡り石材店の業務に従事している当店店主でさえ、各宗派の教義をフワッとなんとなくは理解しているつもりですが、勉強不足のため、自信を持って「分かりますよ!」とは口が裂けても言えません。

大多数の日本人の信仰とはそんな感じなのです。

子供が生まれれば神社(宗教でいうと神道)へ赴き「お宮参り」をし、結婚する際には牧師さん(宗教でいうとキリスト教)の前で永遠の愛を誓い、大切な家族が亡くなると僧侶(宗教でいうと仏教)に読経をしていただく。

別におかしいことではありませんよね?ごく一般的な日本の慣習ですよね?

でも、宗教という側面でいえば実はメチャクチャです。

誤解しないでいただきたいのですが、決してそれが悪いと言っている訳ではありません。むしろ日本の良いところなのかもしれません。信仰に関して大らかというか寛容というか。

なので、日本では信仰の違いによっておこる争いとは無縁ですよね?


もう少し話がそれますが、日本では古代より世の中で起こるあらゆる現象、また太陽・月・山・海・渓谷・滝・川・火・樹木などの自然物、さらには家の中のトイレの中まで世の中に存在する全てのものに神が宿ると考え、八百万の神(やおろずのかみ)として崇める風習がありました。これは神道という宗教の考え方です。

また、インドでお釈迦様が悟りを開き教え広めた仏教が西暦500年代になって日本に伝来すると人の手によって作られた仏像にも手を合わせ崇拝する習慣もそこに加わりました。

したがって日本では1000年以上も前から神道と仏教が密接に絡み合い(神仏習合)一つの宗教体系となっていったのです。

さらには西暦1500年代には鉄砲と共にキリスト教も日本に伝来します。

皆様もご存じの通り、江戸時代に入ると徳川家康は禁教令を出してキリスト教を厳しく弾圧しますが、明治時代になると西洋化の波に押され、キリスト教も市民権を獲得することとなります。

本来「クリスマス」はイエス・キリストの誕生を祝う日であり、キリスト教信者にとっては大切な礼拝日という位置付けなのですが、現代となってはキリスト教信者だけでなく日本人にとって欠かせない行事のひとつになるなど、日本に広く深く根差している宗教の1つとなっています。


何が言いたいのかというと、日本は昔から複数の宗教が混在している中で生活を営んできているということです。


で、話を元に戻しますが「四十九日に合わせてご遺骨をお墓に納骨する」とか「お墓に納骨しないと故人が迷ってあの世に行けない」とか「成仏できなくなる」というのは全て仏教という宗教の形式にとらわれた考え方なのです。

従来の慣習にとらわれ、大切な家族が亡くなると僧侶に読経をしてもらわないと…、という方は実はとても多いのですが、そもそもあなたは仏教を信仰していますか?故人は仏式で送って欲しいと望んでいましたか?

あなたや故人が仏教を信仰しているのであれば、菩提寺のご住職に読経を願いし、故人の冥福を祈り極楽への往生を願うことはとても大切なことです。

でも、仏教を信仰している訳ではなく、ただ何となくそういうモノだから…と慣習に流されているのであれば、勇気をもって一度立ち止まってみてください。

仏教の形式にとらわれない考え方をすることは、あなたにとって大切なことなのかもしれません。


仏教の形式にとらわれなければ四十九日という考え方も無くなりますので、慌ててお墓に納骨する必要はありません。


近年ご供養の多様化が進んでいます。

以前は慣習に従い、大切な家族が亡くなると僧侶に読経をお願いし、四十九日にはお墓に納骨するという一連の流れが一般的ではありました。しかし、故人の弔い方やご供養の方法はそれしかないのでしょうか?それが故人やご遺族の望む方法なのでしょうか?

故人を偲び、故人に思いを巡らせ、故人にしてあげること全てが本当のご供養なのではないでしょうか?


ちょっと考えてみてください。

あなたは亡くなったとします。

遺されたご家族がとても悲しんでいる様子を霊魂となったあなたが近くでフワフワと見守っていますが、亡くなってしまったあなたはどうすることも出来ません。

ある日、ご家族が相談のうえ、納骨はせずしばらくご自宅でご供養しようという結論に達したことを知ったあなたはどう思いますか?

「いやいや、お墓へ納骨してくれなきゃ困るんだけど…」と思いますか?

「寂しいなら、いいよ!そばにいてあげるよ」と思いますか?


遺され悲しんでいる大切な家族が、あなたのことを思ってしてくれることに関して、きっと亡くなってしまったあなたは広い心で受け入れることが出来ると思います。

それは亡くなってしまった大切なご家族も同じなのではないでしょうか?


当店は石材店も営んでおりますが、お墓も必要のないご供養方法をご提案しております。

当店ではいままでの慣習にとらわれず、自由な発想で大切なご家族のご供養が心ゆくまでできるよう、お手伝いができれば幸いです。

手元供養

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